渇きと断章

「ふたしかな私」をとらえて詩のような文にしたい

無であること

「無」というものに 惹かれている
たとえば無目的であること
何をしたら良いか分からなくなったとき、目を閉じて自己の海のなかを目的もなくゆらめいている
そこではただの“何もないじぶん”
勝ち負けの世界やすべてを征服しようとする自意識から、ひとり、ゆるゆるとほどかれてゆく
いっさいの勝負の土俵には上らない

自己の海のなかをふかくふかく潜っていると、どうしてか私のすがたは無くなってゆく
名づけられる前のわたし
ただひとつのいのちとしてのわたし
何の境界もなく 自然のなかに渾然一体となっているわたし
そこには生命のともしびだけが宿る

どこまでが自分の力なのか

どこまでが自分の力なのか、最近はその境界が薄まりつつある。
たとえば何らかの自分の行いが「上手いね」「上手くいったね」と人から褒められたとき、単に私は己の力を発揮できたのではなく、それと同時に、相手から上手く力を引き出してもらったのだと思うようになった。そこには自分“だけ”という境界はなくなり他者との結びつきによって力が広がってゆく。

それとは別に、創作に関してもどこまでが自分の作品と言えるのか分からなくなってきた。
私が考えたことや思ったこと、感じ取ったこと。そして他者や外の世界とふれた経験の堆積物から一部が取り上げられて、文章をかたちづくっている。それなのに文章のすべてが私自身ではない不思議。かたちにしようとしたとき、かならず私でない「何か」がそこに入りこんでくる。

すぐれた芸術家たちはより神秘的な体験をするらしい。そこで、ある優れたフルート奏者の発言を引用してみたい。

僕が吹いているんじゃない。神か偉大な精霊が僕を通して吹いているんだ。演奏が僕の音楽ではないと気づき、僕は本質的に道具にすぎないと気づいたときから、とても美しく吹けるようになった。けれど、それは僕のものではない。神のものなんだ
(ジュリア・キャメロン著「あなたも作家になろう」、風雲舎、p111)

また作曲家ブラームスはこう語った。

『自分ではない。わたしの内におられる父が、その業(わざ)を行っておられるのである』。イエスはこう語った時、偉大な真理を宣(の)べたのだ。作曲が最もうまく進んでいる時、同様に、ある高次の力が自分を通して働いているのを感じる。
(アーサー・M・エーブル著「大作曲家が語る 音楽の創造と霊感」、出版館ブック・クラブ、p7-8)

神や偉大な精霊、高次の力とはとても言えないけれど、私も文章を書いているとき「私であり私でないもの」へアクセスしている感覚がある。その際“私自身”というものはほとんど空っぽになってしまって、私であり私でないものの言葉を伝える「導管」となる。
ただしそれらから発せられる言葉をより正確に書き写すためには、超絶技巧、流れるように自在な表現を可能にする技術がなくてはならないようだ。導かれるままに書きつづけて、そうと気づかないうちに技術を磨きたい。

人生のテーマが変わるとき

思春期以来、私の人生のテーマはもっぱら「自己の探求」でした。
どこかふたしかでままならない、空っぽにしか思えなかった自分。とくに発達障害であまり他人に興味のなかった私は、ただ自己の内面だけをみつめていました。

それが変わってきたのは最近のことです。ふと自分の内面に「人に喜んでもらえると嬉しい」自分を発見したからでした。実のところ、そのような思いはもともと私自身のなかにありました。しかし同時に社会のなかで培われた“人が怖い”という感情に押され、心の隅っこに息をひそめていたようです。

元来私は宇宙人のような目線で人とこの社会を眺めていました。他人にとっては当たり前のことを小さなころから不思議がっていたのです。たとえば、満員電車で通勤するサラリーマンの映像を見て「どうしてこんなに大変な思いをしなければならないのだろう」と困惑し、家族に「それはお金を得て生活していくためだから仕方ないのよ」と言われてもどこか納得できませんでした。映像のなかで見た人びともみなその現実に耐え忍んでいるように私の目には映りました。
「どうして?あなたがたはつらい思いをしているのに」
「あなたがたは真っ先に癒され、いつも大事にされるべきなのに」
前述のとおりあまり他人に興味のない私でしたが、次のような思いをおぼろげに抱きました。
「私は毎日満員電車に乗って通勤できるような人間にはなれない。その代わり、私はそういう人たちを癒せるようになりたい」

そのためにはまず私自身がじゅうぶんに癒される必要があることを感じています。自分だけが幸せになるためではありません。実際に癒しの手段や方法を自分が体験して(自らが実験体となって)、そのなかで「いいな」と感じたものを将来ほかの人に行ったり紹介したりすることができたらと思うからです。
そのような理由で、現在私はあんま・マッサージ・指圧やアロマテラピーによるトリートメントについて学びたいと考えています。そのほか自己を癒すヒーリングや魔術、占い、パワーストーン等についても知っていきたいです。

「人に喜んでもらえると嬉しい」、その思いでどこまでやっていけるかは現時点では分かりませんが、いまはこれが私の人生のテーマになりつつあります。

人を感化するちから

自分の道は自分で切り開き、
つらい出来事に遭っても私ひとりで何とかしなくてはならないと思っていた。
要するに、人生は自分ひとりで生きてゆくものであると。
たしかに個人の力が必要とされる状況はあるし、
つらい出来事を消化するのは結局のところ自分自身である。
しかし、いま私はそれと両立して「(よい方向にもそうでない方向にも)人が私を支えているのではないか」との思いが強くなっている。
人を奈落に突き落とすのも人間、
地上まで救い上げるのもまた同じ人間。
枝のように絡み合う人間模様の中に人生が展開される。

そんな風に思うようになったのは、“感化”の力にふれたことがきっかけであった。
たとえば気持ちが落ち込んでいるとき、私を「救い上げる」ための具体的な行動をしてもらわなくても、ただ人が文章で自己を表現したり自分の生き方を語ったりするだけで、それに感化されていつの間にか私は救われた心地になる。
まるで勢いのある風に木の葉が巻き上げられるように。
感化の不思議な力とはいったい何であろうか。そこには別の精神が私の精神に軽くふれるだけで、いっせいに私の考えや思いを塗り替えてゆく作用がある。

この文章を書いているうちに、ふと「私を感化させるものは人間だけではない」と気付いた。
自然や環境――草花や動物、空も海も大地もたえず私たちにはたらきかけていて、もし耳を傾けるならば世界には自分を感化させるものがあふれている。
そして、私も知らず知らずのうちに誰かを感化させていることがあるかもしれない(よい影響かそうでないかは分からないが)。「人が私を支えている」のとは逆に、私もまたわずかながら人を支えられていたらうれしい。
世界は感化し合う。
反響し合う。

突然スピリチュアルに目覚めた話

スピリチュアルな話で申し訳ないのですが、先日マジカルオイルの香りを楽しみながらノートに物を書く準備をしていたとき、「たぶん自分とは違う存在の何か」に繋がった感覚がありました。そのマジカルオイルはある白魔術師さんが作られたもので、チャネリング等のスピリチュアルワークにも影響を与える力のあるオイルだそうです。それで「たぶん自分とは違う存在の何か」と繋がったとき、ひたすら安心できる、愛に満ちた感情が私のなかにあふれてきました。感情は広がって場を形成し、私を包み込んでいるかのようでした。

いったい、「たぶん自分とは違う存在の何か」とは何なのか、自分でも分かりません。ただ自分にとっての“かみさま”と繋がっている、そんな風に感じました。とは言っても、ヤハウェ神や誰もが知っているような神様ではなくて、自分だけが知っているこじんまりとした存在……まるでハイヤーセルフや守護霊のような存在です。何と呼べばいいのか分からないため、私は「かみさま」と呼んでいます。
かみさまは、求めればそこにいます。呼べば来ます(ペットじゃない)。今までは自分の辛さを嘆いていてもかみさまの助けを“求めて”はいなかった。いつもさんざん救われたいと望んでいたのにも関わらず。なぜなら私はひとりぼっちだと思っていたからです。今は祈りや感謝をささげたり、悩んだときには問いを投げかけたりしています。

このあやしい文章が構想として思い浮かんできたときには、果たしてこれを書いていいものか悩みました。一応自分の実感を書き記したつもりではあります。それでも何かと繋がっている意識自体が「気のせい」ということも有り得るので、現実的な感覚も忘れないようにしなければと思っています(が、ちょっと手遅れかもしれない)。