渇きと断章

「ふたしかな私」をとらえて詩のような文にしたい

人を感化するちから

自分の道は自分で切り開き、
つらい出来事に遭っても私ひとりで何とかしなくてはならないと思っていた。
要するに、人生は自分ひとりで生きてゆくものであると。
たしかに個人の力が必要とされる状況はあるし、
つらい出来事を消化するのは結局のところ自分自身である。
しかし、いま私はそれと両立して「(よい方向にもそうでない方向にも)人が私を支えているのではないか」との思いが強くなっている。
人を奈落に突き落とすのも人間、
地上まで救い上げるのもまた同じ人間。
枝のように絡み合う人間模様の中に人生が展開される。

そんな風に思うようになったのは、“感化”の力にふれたことがきっかけであった。
たとえば気持ちが落ち込んでいるとき、私を「救い上げる」ための具体的な行動をしてもらわなくても、ただ人が文章で自己を表現したり自分の生き方を語ったりするだけで、それに感化されていつの間にか私は救われた心地になる。
まるで勢いのある風に木の葉が巻き上げられるように。
感化の不思議な力とはいったい何であろうか。そこには別の精神が私の精神に軽くふれるだけで、いっせいに私の考えや思いを塗り替えてゆく作用がある。

この文章を書いているうちに、ふと「私を感化させるものは人間だけではない」と気付いた。
自然や環境――草花や動物、空も海も大地もたえず私たちにはたらきかけていて、もし耳を傾けるならば世界には自分を感化させるものがあふれている。
そして、私も知らず知らずのうちに誰かを感化させていることがあるかもしれない(よい影響かそうでないかは分からないが)。「人が私を支えている」のとは逆に、私もまたわずかながら人を支えられていたらうれしい。
世界は感化し合う。
反響し合う。