渇きと断章

「ふたしかな私」をとらえて詩のような文にしたい

どこまでが自分の力なのか

どこまでが自分の力なのか、最近はその境界が薄まりつつある。
たとえば何らかの自分の行いが「上手いね」「上手くいったね」と人から褒められたとき、単に私は己の力を発揮できたのではなく、それと同時に、相手から上手く力を引き出してもらったのだと思うようになった。そこには自分“だけ”という境界はなくなり他者との結びつきによって力が広がってゆく。

それとは別に、創作に関してもどこまでが自分の作品と言えるのか分からなくなってきた。
私が考えたことや思ったこと、感じ取ったこと。そして他者や外の世界とふれた経験の堆積物から一部が取り上げられて、文章をかたちづくっている。それなのに文章のすべてが私自身ではない不思議。かたちにしようとしたとき、かならず私でない「何か」がそこに入りこんでくる。

すぐれた芸術家たちはより神秘的な体験をするらしい。そこで、ある優れたフルート奏者の発言を引用してみたい。

僕が吹いているんじゃない。神か偉大な精霊が僕を通して吹いているんだ。演奏が僕の音楽ではないと気づき、僕は本質的に道具にすぎないと気づいたときから、とても美しく吹けるようになった。けれど、それは僕のものではない。神のものなんだ
(ジュリア・キャメロン著「あなたも作家になろう」、風雲舎、p111)

また作曲家ブラームスはこう語った。

『自分ではない。わたしの内におられる父が、その業(わざ)を行っておられるのである』。イエスはこう語った時、偉大な真理を宣(の)べたのだ。作曲が最もうまく進んでいる時、同様に、ある高次の力が自分を通して働いているのを感じる。
(アーサー・M・エーブル著「大作曲家が語る 音楽の創造と霊感」、出版館ブック・クラブ、p7-8)

神や偉大な精霊、高次の力とはとても言えないけれど、私も文章を書いているとき「私であり私でないもの」へアクセスしている感覚がある。その際“私自身”というものはほとんど空っぽになってしまって、私であり私でないものの言葉を伝える「導管」となる。
ただしそれらから発せられる言葉をより正確に書き写すためには、超絶技巧、流れるように自在な表現を可能にする技術がなくてはならないようだ。導かれるままに書きつづけて、そうと気づかないうちに技術を磨きたい。