渇きと断章

「ふたしかな私」をとらえて詩のような文にしたい

2015-06-01から1ヶ月間の記事一覧

満たされない内面の渇き

この渇きを具体的に何と呼ぶのかは知らない。イメージとして思い浮かぶのは、私たちがよく写真や映像で目にするありふれた砂漠の姿だ。ただし、それは私のすべての行動の源になる“枯れた泉”でもある。 暑い日が続き、リンゴジュースを飲もうと冷蔵庫をひらい…

ことばなんて

ことばなんてなければよかった。人がそれを発した瞬間にまちがいが生まれてしまう。ああ、まさにこのように書かれた瞬間から。ことばは暗闇を走るひとすじのいかずちのようなものだ。ところが正しさは大気の中に入り混じり、幾度いかずちを浴びせても全体を…

詩「ふたしかな自己」

自身は木もれ日のようにゆらぐもの確かにかたち作られた身体と同じようなものだとばかり思っていたけれど――私は身体ではないおだやかな昼の日差しに ようやく目を覚ましたなにかそれは木立のあいだにあらわれたり伸びる影のなかに ふっと消えていったりする

文章を発表できる時期、できない時期

人間には波があるのと同じように、文章を発表できる時期とできない時期がある。私は過去に絵を描いていて、いまはこんな文章を書いているのだが、どちらにしてもずうっと人に見せられないときが続いていた。まず創作したい、人に見てもらいたいという意欲は…

形式への先入観と、形式のない文章

形式という文章のよりどころが欲しかった。“よりどころ”という表現が適切でなければ“器”と言い替えてもいい。詩や小説、評論、エッセイ、ルポルタージュ、断章。さまざまな種類の形式のどれかひとつに落ち着きたかった。いまいち私の文章はどのカテゴリーに…

創作せよ、と呼ぶ声が聞こえ

天が下しる梅雨のころ、水垢のように生活も鬱屈してくると(およそ時期関係ないのだが)、「創作せよ」と私に語りかける声がする。創作はいつも「作れ」と一方的に命令してくる。こちらの意思や都合なんてお構いなしだ。 そもそも私は創作することが特別好き…

詩「傍感する」

風が流れるあいだ目を閉じていると どうしてこの世のひとひらはやすらかに私を通り抜けてゆくのだろう。この身はさざめきとともにうつろになり全てはやさしくゆられて目を覚ます。 いつも責められていると感じたのは近所の子どもたちの遊ぶ声まぶた 閉じられ…

発達障害者の表現手段

発達障害でない人たちは話し言葉や表情、身振り手振りでのコミュニケーション手段をおそらく自然に獲得する。だが発達障害者にとってそれは難しいため、最も自分を表現するのに適した手段は何かを模索する。言うなれば自分の手足を再獲得するのだ。例えば書…

死に憧れるなまけもの

どうやら私は周りの人よりも死に対していくぶん楽観的らしい。もといたところ(無)に還るだけだと情緒面で安心しているからかもしれない(もし「死後の世界」があったらがっかりする)。死が怖いと人は言う。私には生きていることの方が怖い。 なぜ死に対し…