渇きと断章

「ふたしかな私」をとらえて詩のような文にしたい

死に憧れるなまけもの

どうやら私は周りの人よりも死に対していくぶん楽観的らしい。もといたところ(無)に還るだけだと情緒面で安心しているからかもしれない(もし「死後の世界」があったらがっかりする)。死が怖いと人は言う。私には生きていることの方が怖い。

なぜ死に対していくぶん楽観的なのか。それは私の本性が生よりも死に近いからだと推測している。つまりヒンドゥー教の聖典『バガヴァッド・ギーター』に書かれている「暗質(タマス)」的な特徴、

一方、暗質は無知から生じ、一切の主体を迷わすものであると知れ。それは怠慢、怠惰、睡眠によって束縛する。(上村勝彦訳『バガヴァッド・ギーター』p.114)

不明、無活動、怠慢、迷妄。これらは暗質が増大した時に生ずる(同上)

また自分自身を振り返って見るに、生きてんだか死んでんだか分からないほどの怠け者で面倒くさがり。こうした人間にとって土に還る(もう生きるために何もしなくていい)というのはいかにも魅力的に思われる。

だからこそ冒頭のように「死後の世界」があったら本当にがっかりする。それは「まだ生きなきゃならないの……」という失望やしんどさに由来する。魂の永続性や輪廻転生といった考えを否定したいわけではないが、私自身の思いとしてはただひたすら面倒くさくていやでいやでたまらない。

中学生のころクラスの学級委員を務めていたが、さまざまな理由が重なって登校拒否してしまった(途中で委員を放り出してしまったのには今も自責の念がある)。その後クラスは私に代わる新しい委員を選出して、彼らの学校生活には特に差し障りがなかったそうだ。

その際私は「自分がいなくても世界(そのときはまさに学校こそが世界のすべてだった)は平常通り運行しているのだなあ」と遅まきながら気付いたのだった。私にとって自分自身は欠かせない存在だ。だが、世界にとってはそうではない。それが死に関する考えの基礎の一部分をなしている。