渇きと断章

「ふたしかな私」をとらえて詩のような文にしたい

形式への先入観と、形式のない文章

形式という文章のよりどころが欲しかった。“よりどころ”という表現が適切でなければ“器”と言い替えてもいい。詩や小説、評論、エッセイ、ルポルタージュ、断章。さまざまな種類の形式のどれかひとつに落ち着きたかった。いまいち私の文章はどのカテゴリーに入るのか自分ではよく分からない。形式という所属のなかで生きたかったし、どれか決まった形式で活躍しているひとびとが自分にはまぶしく見えた。浮草、飛蓬のように寄る辺なき私は心細い。

問題は私自身の先入観だ。たとえば、詩なら「詩」という形式にあらかじめ抱いているイメージがあって、それと自分の書く文章にズレがあったりすると「自分の文章は詩ではない!」と打ち捨ててしまう。その結果、ここには所属できないと嘆くことになる。

私は詩を書きたいと思っていた(「詩を書きたい」と言っている時点で手段と目的が逆になっているのかもしれない)。ところが書いているうちに上のような先入観と実際の文章とのズレが気になって、頭がごちゃごちゃになる。そこでいったん詩という形式を脇に置いて、こんな風に自由に書いてみようと思い立ったのが最近のことだ。それで気付いたのは、形式によらず書いた文章はただ存在していること。それでじゅうぶんだ。もっとも、どこにも所属していない不安は未だにつきまとっているけれど。

私の文章の形式はなにか、自分自身でどうこう悩むのではなく――読んだ人それぞれに判断して貰えればそれでいいのかもしれない。