渇きと断章

「ふたしかな私」をとらえて詩のような文にしたい

文章を発表できる時期、できない時期

人間には波があるのと同じように、文章を発表できる時期とできない時期がある。私は過去に絵を描いていて、いまはこんな文章を書いているのだが、どちらにしてもずうっと人に見せられないときが続いていた。まず創作したい、人に見てもらいたいという意欲はある。あるのだが実際に作業に取り掛かると足がすくんでしまう。思うにペンの走りを止めるのは語彙や文法の知識、アイデアの不足という面もあるけれど、そもそもは「おそれ」の存在が大きいのではないか。作るおそれ、人に見せるおそれ……。それらに悩まされて創作できないあいだ、私はずっと岡本太郎さんの「壁を破る言葉(イースト・プレス)」という本に書かれた一節を心の支えにしていた。

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“人間は精神が拡がるときと、
とじこもるときが必ずある。
強烈にとじこもりがちな人ほど
逆にひろがるときがくる。”

いままさに創作できずにあえいでいる人間に宛てた言葉はさまざまな本を見渡しても少ない。人に相談しても「嫌ならやめれば?」と言われちゃう始末なのだから(この言葉にも一応の真実はあるのだが)。それは巻末の岡本敏子さんによるあとがき、「岡本太郎の言葉は簡潔だが、自身の血をふき出す壮烈な生き方に裏打ちされている。理屈ではない、説教でもない。彼のナマ身がぶつかり、のり越えてきた、その痕跡なのだ。」との言葉通り、自身に向けた言葉だったのだろう。

年を経るにつれて殻をひとつひとつ脱ぎ捨て、彼の言葉の通り……かどうかは分からないが、ようやく私はこんな風に書くことができるようになった。おそれは以前より小さくなったものの無くなってはいない。だが、それよりも文章を人に見てもらいたい気持ちが大きい。私の文章を発表できる時期、そして自分自身の「ひろがるとき」が来てくれたのならとてもうれしく思う。