渇きと断章

「ふたしかな私」をとらえて詩のような文にしたい

満たされない内面の渇き

この渇きを具体的に何と呼ぶのかは知らない。イメージとして思い浮かぶのは、私たちがよく写真や映像で目にするありふれた砂漠の姿だ。ただし、それは私のすべての行動の源になる“枯れた泉”でもある。

暑い日が続き、リンゴジュースを飲もうと冷蔵庫をひらいたときにふと気がついた。このジュースではとても満たされることのない渇きが私の内面に巣食っていることを。いったい何を得られればそれが潤うのかは分からない。分からないまま、いつも私は急きたてられている。とにかく何か行動するように命令される。焦りと欲求不満。渇きは人間の根源的なものなのだろうか。余暇に文章を書いたりするのも勉強したりするのも、それどころか日常の何気ない行動のすべてがこの渇きから生まれていく。

しかし私は、理由はよく分からないものの、この渇きによって――ときどき死にそうな思いになりながらも――今まで生きながらえることが出来ているようにも感じる。それは渇きが人生の先々を切りひらいてきたような感覚だ。言い方は悪いかもしれないが、走る馬の眼前にぶら下げられたニンジンのように。もし渇きが潤ってしまうことがあれば怠け者の私のあゆみは止まってしまうかもしれないから――本当はそうなりたくもあるのだけれど。