渇きと断章

「ふたしかな私」をとらえて詩のような文にしたい

詩「郷愁」

何が正しいかは分からないままだったが
「何かが違う」という感覚をたよりにやってきた
いいえ、いつも何かが≪違っていた・・・・・≫の
ひと針の違和感の痛みに飛び出して
生涯をかけ 霧のたちこめる海岸に沿って旅をつづける
潮騒が大きく口を開けて波を飲みこむ横で

生まれたところから遠く離れていた予感がしたの
どこにあるかは分からない でも 心にいつも映っていた場所

何もしないことで私はもっと私になる

私はミニマリストにはなれないと思う。それは、むだなことをする時間を手ばなしたくないからだ。有意義なことだけに時間を費やせれば理想的なんだけれど、それのみではどこまでもあくせくして息がつまる。
それと同時に、どこか自分が他人とあまり変わらないような
“これは「私」ではない”という違和感も生じる。
無個性の「わたし」になってしまいそうな――
だから、一見むだなように思える時間がなければ自己を保てない。

逆に、むだなことをしているときほど自分らしさを感じる時間はない。
ほとんど何もしていないときにそれは極まる。

たとえばそのように自己を喪失しそうだと感じたとき、私は気が済むまで布団の上に寝っ転がる。何もしない。ときどき近くにある本をぱらぱらとめくったり、何気ないことについて思索したりする。成果も何もない。一日をむだに過ごしただけだ。しかし私はこのような方法で、もっと私になる。

満たされない内面の渇き

この渇きを具体的に何と呼ぶのかは知らない。イメージとして思い浮かぶのは、私たちがよく写真や映像で目にするありふれた砂漠の姿だ。ただし、それは私のすべての行動の源になる“枯れた泉”でもある。

暑い日が続き、リンゴジュースを飲もうと冷蔵庫をひらいたときにふと気がついた。このジュースではとても満たされることのない渇きが私の内面に巣食っていることを。いったい何を得られればそれが潤うのかは分からない。分からないまま、いつも私は急きたてられている。とにかく何か行動するように命令される。焦りと欲求不満。渇きは人間の根源的なものなのだろうか。余暇に文章を書いたりするのも勉強したりするのも、それどころか日常の何気ない行動のすべてがこの渇きから生まれていく。

しかし私は、理由はよく分からないものの、この渇きによって――ときどき死にそうな思いになりながらも――今まで生きながらえることが出来ているようにも感じる。それは渇きが人生の先々を切りひらいてきたような感覚だ。言い方は悪いかもしれないが、走る馬の眼前にぶら下げられたニンジンのように。もし渇きが潤ってしまうことがあれば怠け者の私のあゆみは止まってしまうかもしれないから――本当はそうなりたくもあるのだけれど。

ことばなんて

ことばなんてなければよかった。人がそれを発した瞬間にまちがいが生まれてしまう。ああ、まさにこのように書かれた瞬間から。
ことばは暗闇を走るひとすじのいかずちのようなものだ。ところが正しさは大気の中に入り混じり、幾度いかずちを浴びせても全体を照らし出すことができない。

正しさは無言のうちにある。

ある空気の澄みわたった晴れの日の早朝、キッチンのすり硝子の向こうに太陽の光が注がれているのを見た。わずかに風のある日で、庭の緑の草が光を浴びながらそよそよとゆれている。すり硝子ごしにこのようなおだやかな世界を見たとき、もうこれで終わりでいいじゃないかと思った。

円満な完成!(「ウダーナヴァルガ」冒頭)

これ以上いったい何を求めることがあるだろう。しかし、私たちはこれだけで生きていくことができない宿命を負う存在でもある。

詩「ふたしかな自己」

自身は木もれ日のようにゆらぐもの
確かにかたち作られた身体と
同じようなものだとばかり思っていたけれど――
私は身体ではない
おだやかな昼の日差しに ようやく目を覚ましたなにか
それは木立のあいだにあらわれたり
伸びる影のなかに ふっと消えていったりする